« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

2012年9月28日 (金)

すべてのはじまりは<純粋疎外>

 <純粋疎外>という、<自分>と<自分以外>のものの見分けがつかない状態は、あらゆる場面でいつも起っています。<自他不可分>はいつでもどこでも起こっている現象です。この判断不能の状態は次のステップへの準備でもあると考えられます。

 そして、すべてがはじまるところが<純粋疎外>です。

 

 <純粋疎外>の始まりは母親の胎内です。

 人間が胎児として母体内にいるときには、<自分>と<母親>の区別がついていません。胎内で母子は一体であり、母子不可分の状態にあります。胎児からみれば<自他不可分>な状態です。羊水に浮かんでいる胎児の姿は、36℃のぬるま湯につかっている人と同じようなものでしょう。実際にこの状態を再現するようなフロートカプセル(アイソレーション・タンク)があり、リラクゼーションに役に立っているようです。人間の原点である母子不可分の状態、<自他不可分>な状態にまで戻って、安心していられた状態を想い起こし、一時ですが根本的な安寧を得て心身ともに心底から休むことができると思われます。ラジカルにリセットできるワケです。

 <自他不可分>の状態である<純粋疎外>では、時間や空間も区分けされていません。自己と他者だけではなく、過去も未来も区別できない状態なのです。そのために<純粋疎外>の状態では<いま/ここ>の認識を未来のように感じたり、あるいは過去のように感じたりします。デジャブとか予言、予知のような感覚の根拠がここにあります。

2012年9月26日 (水)

<純粋疎外>という<自他不可分>の状態

 お風呂に入って、お湯の温度が38℃だとすれば、そのお湯はヌルイと感じるでしょう。もしそれが42℃だとすればアツイと感じる人が多いと思います。

 アツイとか、ヌルイとか....これらは価値判断です。
 人間の価値観からモノゴトを判断した価値判断です。

 それでは体温と同じ36℃のお湯ではどうでしょうか?
 価値判断としては38℃より低い36℃ならばもっとヌルく感じるはずです。
 ところが、実際にはこの36℃のお湯の中では何も感じません。水圧による圧迫感や水の動きによる感触はあっても温度の感覚としては何も感じていません。正確には、感じることができないのです。ナゼなら、自分と同じ温度なので、感覚は感じることができないワケです。価値判断ができない状態です。
 つまり温度を感じる温感としては、<自分の身体>と<外部のお湯>とが同じ温度なので見分けがつかないのです。主体である自分と感覚の対象である自分以外のものとの区別をつけることができないワケで、温感としては<自他不可分>の状態あるいは価値判断不能の状態でもあるわけです。

 この<自他不可分>の状態は、特に珍しい現象でもなく日頃から私たちのさまざまな感覚と認識のなかで起っていると考えられます。たとえば、寝ぼけていたり何かに気をとられていて、今目に見えているものが何だかわからないということがあります。視覚的には見えているのに意味がわからない。つまり視覚情報としてはキャッチできているけど、その意味がわからないということです。
 そして意味がわからないためにその価値もまったくわかりません。前述のお湯の例でいえば、お湯という対象がわからないためにアツイ・ヌルイという価値判断もないということと同じになります。

 以上のように自分と対象の見分けのつかない<自他不可分>の状態があり、そのために価値判断もできない<判断不能>の状態があることがわかります。逆に価値判断ができない状態は対象の見分けがつかない状態だともいえるワケです。

 このような、対象を捉えているが価値判断できない状態、あるいは自分と対象との区別がつかない状態というのは珍しいことではなく日頃からある状態です。

 

 この状態を吉本理論では<純粋疎外>といいます。 
 それが視覚においてのことであれば<純粋視覚>、聴覚の場合ならば<純粋聴覚>、感情ならば<純粋感情>となります。

2012年9月21日 (金)

<純粋疎外>は<ゼロ>の発見!

 インド哲学ゼロを発見したことによって数学も論理学も飛躍的に発展しました。
 仏教や、空海のような認識論までひろげれば、それはさらに現代の理論物理学まで含むあらゆる分野に歴史的な衝撃と進歩をもたらしたといえるでしょう。

 人類がいちばん古くから考えてきた心=魂への孝察においてはどうか?
 確かに精神分析は無意識を発見しましたが、その後もこのブラックボックスに依拠するというスタンスに変化が無く、ラカンのように<現実界>という概念を設定しブラックボックスを明確に対象化したところで、それがブラックボックスであることにかわりはありません。

 生命の自己生成から社会への孝察にまで広く援用できると期待されたオートポイエーシスのシステム論においても、それは同じです。

 オートポイエーシスのシステム論には<外部>が定義できないという限界があります。
 そしてこのことによってシステム論の最大の特徴でありメリットとされた<境界>の自己生成という発想にも大きな疑念をはさまざるをえないと考えられます。
 なぜなら、<外部>の定義がアヤフヤなのに<外部>と<内部>の区切りである<境界>が定義できるワケがないからです。
 ただし<外部>や<境界>を明確に定義できないという弱点こそ、逆に論理的な根拠として利用できる可能性があります。
 そのヒントが<ゼロの発見>です。

 無いというコトを<ゼロ>と定義して明確に概念化したインド哲学のように、明確に定義できないことは{<定義できない>と明確に定義すればいいワケです。

 

 吉本隆明氏の心的現象論は、受胎(あるいは受精)の瞬間からはじまる心的な世界に、<ゼロ>の概念を導入することで理論的な展開を可能にしたもの。心的世界での<ゼロの発見>によって、心理学から哲学だけではなく、さまざまな認識論までもつらぬく心の現象学を打ち立てることができたわけです。 

 それが<純粋疎外>と呼ばれるもの。
 これが<ゼロの発見>です。

2012年9月19日 (水)

<吉本隆明>を新しく読む!

●共同幻想とは人間関係のこと…

 吉本さんのタームで有名なのが“共同幻想”。まったく吉本さんとは関係のない文脈で使われてることも多く、たしかに、どこでも誰にでも使いやすい言葉だ。旧来の読者にとっては“国家とは共同幻想である!”の一言で絶対的な存在に見える国家を相対化してしまった革命的キーワード。ニーチェの“神は死んだ!”くらいの衝撃があったんだと思う。

 ただし、“共同幻想”が正確に理解されているかどうかはナゾ。国家は幻想である面があるが、『共同幻想論』ではそういう説明をしているのではないからだ。幻想を見てしまう理由と、それを使ってヤマトの国や、村々の共同体ができていく過程を解説していて、近現代の国家を直接に説明しているパートはひとつもない。近現代国家の機能分析ならばレーニンの『国家と革命』や、グローバルレベルではネグリハート『帝国』が詳細な分析がされいて、吉本さんも『国家と革命』を評価している…。

 『共同幻想論』で解説されているのは山村の小さな社会や共同体、古代日本の国家の生成過程だ。『遠野物語』に代表される伝承や巫女やシャーマンに象徴されるエピソードなど民俗学、文化人類学的なアプローチが大部分。簡単にいえば、そこでの“人間関係”が分析されている、といってもいいだろう。社会や国家は膨大な人間関係の総関数なのだから当然だ。経済の市場が膨大な相対取引の総関数であるように、吉本さんは個人と最小共同体である家族との関係を起点に、国家というものが見えてくるレベルまで論理を展開させている。この一貫性と強度は驚異的。そしてこれが吉本さんとその思想の魅力だろう。この思索する力は、不可能なものがないんじゃないか?と思わせるくらいスゴイのだ。そして実際、吉本さんの思索はその後もずっと続いて、コムデギャルソンから宇多田ヒカルまで、その方面のプロより深く鋭いクリティークが繰り返されていく。超高度資本主義の現代社会を読み切った『ハイ・イメージ論』まで、それは続いている。

●Mフーコーが『言葉と物』の失敗をコクった…

 共同幻想論をメインとした吉本さんの思想や理論のガイドは少なくはなく、また、どうにかハイ・イメージ論までサンプリングしてる批評もある。しかし、そのスタンスは旧来の読解のもので、ポストモダンを経過した見解はなく、たとえば共同幻想論は国家論…という一面で見ているケースがメジャーなようだ。難解で有名な『心的現象論序説』などは言及も少なく、『アフリカ的段階』のように奇書と呼ばれるものもある。逆にいえば、それほど強烈なオリジナリティと、フランスの現代思想の当事者たちが絶賛するような内容が吉本さんの著作にはあふれているのだ。資本主義最後の思想家ともいわれるMフーコーは自らの大著『言葉と物』の失敗を吉本さんとの対談でコクっているほど、吉本さんは信頼されているともいえる。

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』のようにまずひきこもりを全面肯定してくれた思想は他にはない。もともとひきこもりな吉本さんだからこそ主張できた深さと優しさがある。他人にどう見られるかとか内容よりプレゼンの上手さ…みたいなものは吉本さんには一切通用しないのだ。『よせやぃ。』『超恋愛論』も理論を述べている著書より鋭い指摘も目立ち、答えはこれからみんなで出していかなければならないような提起がスルドイ。『初期ノート』は自身をグランドリセットとした吉本さんが再起動していくリアルな姿だ。レーニン『哲学ノート』みたいな縦横無尽の思索が、みずみずしい。同じ年の頃にこれだけ思索できたか?という大きな刺激にもなりそうだ。

 『ハイ・イメージ論』は『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』の現代版。幻想というイメージの問題と、言語という概念などの問題を、視覚像も含む世界視線の問題として統合しようとしたもの。その心理作用は『心的現象論序説』から『心的現象論本論』へ拡張され、『ハイ・イメージ論』との相互補完的な文献として展開されている。心的現象論は未完だとされているが、ハイ・イメージ論のエンデイングと考え合わせると、ワザと未完で終わらせたのでは…と思えるところがある。ハイ・イメージ論は超高度資本主義下でマテリアルとテクノロジー以外は無効であることを宣言して終わっている。つまり超高度資本主義社会での思想や倫理はこれからみんなが考えることだ…と示唆されているワケだ。
 マルクスやフロイトや、遠野物語や日本書紀まで、さまざまなエグザンプルを参照しながら、吉本さんの思索は展開されてきた。上等な素材が神業のような手さばきで、時に予想もしなかったような新しい意味や価値となり、重要な意義を発していく。そうやって共同幻想論や心的現象論は書かれたのだし、また多くの対談がなされてきた…。読者にとってはどうだろう。

●国家も自分も<ゼロ>、あるのはゼロの可能性だ…

 新しく最大の思想家の最強の思索をフォローして、自分たちのスキルにするには、新しい読み方が必要だろう。ここではリア充な吉本ガイドを目指したいのだ。
 結論をいうと、吉本理論のベースにある概念を新しく考えなおして、自分たちに役立てようというのが本書だ。
 吉本さんが思索し、提出した概念装置を別の言葉に置き換えて考えてみる…そうやって<純粋疎外><遠隔対称性><中性の感情>といったものを、もっと使いやすくする…。新しい読解には新しい可能性があるハズだ。
 吉本さんが自らは知らずに構築していた理論の最重要概念に見出せるのが<ゼロの発見>ともいえるもの。
 この<ゼロ>を顕在化させて、自分たちの思索のスキルにしようというのが本書の企画だ。

 エグザンプルなどは文学的な意味や古いイメージもあるので、現代風に言い換えてもみる。
 この新しいタームへの変換では、同時に、だからこそ可能になった吉本さんの<ゼロの発見>を強調しておきたい。このことによって吉本理論をベースとするものはもっと汎用性が高くなるからだ。

 幻想性は<ゼロ>によって支えられているけど、そこには同時に、<ゼロ>には何でも代入できる…という可能性がある。ボクたちには、自らを<ゼロ>に代入して、なりたい何かになれる…という可能性があるのだ。吉本さんの魅力は、そのことをなんとなく示すかのように楽天的だったことかもしれない。すべての思想は無効になったと宣言しながら、ペシミスティックではないからだ。

 5年も同じことをやったら、その方面のプロになれる…吉本さんはどこかでそんなことを書いていた。もっとやったら開拓者になれる…ともいってくれていた気がする。国家も自分も<ゼロ>であることを示してくれた吉本さんは、そこへ自分を代入できることも教えてくれている。本書は<吉本隆明>を新しく読むとともに、読んでからのボクの見解をいくつも載せている。吉本理論に影響されたものの見方や、そのポテンシャルをプレゼンしているワケだ。むしろその方が多いかもしれない。吉本さんを新しく読むということそのものが、吉本さんに影響されて生まれたスタンスでもあるからだ。

 最強のスキルを自分のものにするためにも、コードゼロへ<自分>を代入してみよう。
 そのためのアドバイスをするのが、この本の目的だし、ボクの目的だ。

2012年9月 6日 (木)

最大の思想家が思索した、何にでもなるコード<ゼロ>の発見!

     色彩は自然を模倣するが、
     配色は論理を模倣する…。


 最大の思想家といわれる吉本隆明さん。
 未帰還者の彼は、現世に膨大なテキストを置いていってくれた。はじめの2行は“東京国際コレクション”で見たコムデギャルソンをサンプルにしたファッションについてのテキスト(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」)からのもの。ファッションについて分析した明快な定義の一言。吉本さんの後輩でもある東工大のある学者は、今の小学生たちが大きくなった頃には吉本さんの多くのテキストが研究され、新発見があるだろうといっている。資本主義の最後の思想家といわれるMフーコーは、吉本さんのテキストが海外で出版されることを希望した。もちろん今すぐに吉本さんのテキストを読み、そのポテンシャルを知りたい人も多いはずで、何よりも近い将来の見通しさえハッキリしない現状では、なおさらそうだろう。専門家さえいまだにバブル経済の理由もその崩壊もちゃんと説明できなかったりする。しかし吉本さんの論考を手がかりにするとバブル経済でさえ明快に解ってしまうのだ。吉本さんはバブル当時にすでにその全体像に対する指摘をしていた。そこにはいまのグローバルレベルの民主化やデフレまで予測されている。

 

 『ハイ・イメージ論』の論考は鋭いクリティカルな内容で、サブカルから経済まで“現在”にフォーカスしている。現在を解明するために吉本さん自身が目指したオリジナルでクリティカルな思想だ。それはかつて絶大な影響をもった『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』の現代版であり、“現在”に対して明快な解を示すことができている。アバウトにいうと、人間と共同体の関係を解いた共同幻想と、言葉とその価値を解いた言語論を、イメージを中心に統合し直したのがハイ・イメージ論なのだ。

 そして、ハイ・イメージ論は現代社会で通用する思想がない…という解を示して終わっている。
 だけども、吉本さんの思想は暗くない。絶望を捨てるとかいうクールを装ったポーズではないし、その自然体のジャッジは、どこか悟りのようで、しかも宗教的なニュアンスでもなく、日常をふつうに生きていく静かな“力”のようなものがあふれている。詩人の繊細さをもった革命家というか…革命家の魂をちょっと秘めた横丁のオヤジさんみたいな…感じかもしれない。元気なひきこもり、シャイな人間オタクみたいな、そんなイメージもする思想家?が吉本隆明さんなのだ。

 

 2012年3月16日未帰還者となった吉本隆明さんは、戦後最大の思想家。ノンジャンルで展開される頭脳はクールで、丸山真男論をキッカケにCIAにリストアップされたといわれるほど。社会についての発言はいつも刺激的。誰もが気がつかない視点をもつダークホース的な存在だけど、ホントはダースベイダーのような“最期に優しさ”のようなものを漂わせてくれそうなのがリアルな吉本さん、らしい。もちろん、“マクドナルドな作品”といわれた小説で世界で人気を得た作家よしもとばななさんのお父さんだ。

 当時?も今も、吉本さんの人気が絶大なのは団塊世代や全共闘世代という人たち。学生運動がさかんだった頃、“国家は幻想である”ことを示した『共同幻想論』の本とともに吉本さんは大スターだった。この世代の人たちが書いた吉本さんのガイド本や関連書籍があり、読まれている。ただ当時共同幻想論が人気だったように、それらの本の内容も共同幻想や当時の思想や哲学のワクにとらわれているものが多く、逆に“最も難解な書”といわれる心的現象論などが取り上げられる機会は少ないようだ。

 新しい世代?では糸井重里さんの“吉本隆明リナックス化計画”や渋谷陽一さんの「SIGHT」での吉本さんの連載などがあり、読者は少なくないようで、若い女性のファンも増えている。吉本さんの講演がDVD化されたり、身近な内容の斬新な書籍となって読まれている。iPodで吉本さんのワンフレーズを聴いている人もいるようだ。

 もっとも新しいのは東浩紀さんの「思想地図」などと周辺の読者かもしれない。吉本隆明さんは小林秀雄とともにたった2名だけその想像力を「思想地図」からリスペクトされる思想家なのだ。ただし、新人類以降の世代からは吉本理論の紹介本やガイドは出ていない。たぶん、これから吉本さんを読んでいこうというのが最大公約数なのかもしれない。

 

 95年のWindows95や96年のインターネットの本格的な商業化スタートでコンピュータとネットは日常化し一般化した。文系理系問わずプログラマは普通の職業になり、PCやIT関連は社会や産業の重要なベースになった。テクノロジーとマテリアルが社会の進歩のキーだ。世界に植民地とか低開発国がたくさんあった頃は、“解放”のためのイデオロギーや“進歩”のための物語りが必要だった。現在はどこかに占領されてる場所は少ないし、開発途上国には先進国からIT技術が入り、ジャングルでもWIMAXがOKだったり、ケータイは多くのところで使えるようになってきた。テクノロジーとマテリアルのおかげだ。そのなかで思想や哲学だけがおくれているのかもしれない。たとえば思想や哲学、精神分析まで、システム論などが取り入れられてきたが、その成果がなかなか確認できなかったりする。

 消費がGDPの半分以上を占める日本やアメリカなどの先進国ではモノがあふれ、景気がよくなくても、どこでも商品はたくさん並んでいる。恒常化したデフレ状態だ。これまでの人類の歴史のすべてが、無いものを作り、必要な物を生みだし、欠乏を補うものだったけど、現在は逆。モノがあふれ、いろいろなチャンスが誰に対してもあり、すべてが“過剰”だということができる状況になってきている。現在のキーワードは<過剰>なのだ。

 吉本さんの『ハイ・イメージ論』では、その<過剰>な世界をターゲットにして分析している。現在の“共同幻想論”であるハイ・イメージ論では、欠如を埋めようとした時代の倫理が、今はもう通用しなくなったことを結論にしている。フラット化した社会では今までの思想や倫理は無効になってしまったのだ。

 しかし、そのフラット化した、すべてはゼロであるような状況でこそ、力を発揮する思想はある。
 疎外概念から思索して、国家がゼロであること、自分さえゼロであることを示した吉本理論は、同時に、その<ゼロ>には何でも代入できることを明らかにしているからだ。
 すべてがゼロであることを示した思想は、同時に誰もが何にでもなれることをも示してくれた、といえる。
 <ゼロ>には何でも代入できるからだ。

 そのコード・ゼロに接続する導きとしてこの本は企画された。
 読者はそれぞれに<自分>を代入してほしい。
 フラット化した社会だからこそ、これからをクリエイトするのは自分たちなのだから。

2012年9月 3日 (月)

<純粋疎外>という、コード・ゼロ

 吉本さんの理論では<純粋疎外>という概念を基本的な前提としてさまざまな言説が展開されていきます。戦後最大の思想家と呼ばれたり、資本主義最後の思想家といわれたMフーコーが吉本隆明を絶賛した理由も、そのような可能性を吉本さんに見出したいといったところにあるのかもしれません。

<純粋疎外>とは、たとえば…

 ・社会的な大きなワクでいうと、現代では<生産者>と<消費者>の見分けがつかなくなってきています。アメリカからはじまった消費者の絶対的な保護は日本でも実効されつつあります。これは先進国であることのバロメーターでもあり、構造改革がなされる以前の日本は生産者を中心とした社会でした。しかしPL法に代表されるように消費者保護が全面的に打ち出され、現在では生産者と消費者の区分けをせず見分けもつかなくなってきています。消費者と生産者はともに<自他不可分>の状態で、価値判断もできなくなっています。特定の価値観による主張や政党が支持されなくなってきているのもその現われでしょう。グローバルにはTPPをはじめ大きな問題が生じています。

 ・経済(学)的には<商品>と<貨幣>の見分けがつかなくなってきています。お金を出して株式を買うのは、お金(貨幣)という有価証券で株式という商品(有価証券)を買っているわけで、お金でお金を買っているわけです。違いといえば貨幣は国家が発行し、株式は会社が発行しているという点。この違いは法的なものでしかなく実体的には同じです。どのような点で同じかというと<実体が無い>という点で同じなわけです。「本物の日銀券は偽物だった」という浅田彰さんの言葉はこういうことを象徴しているといえるでしょう。

 ・吉本理論では社会の基本的な拠り所を<大衆>としていますが、この<大衆>という概念も<純粋疎外>概念としてのもので、<大衆の原像>と定義され呼ばれています。
 <純粋疎外>としての<大衆>とは、公的と私的の区別がつかない状態の大衆だと想定できます。公的なニュアンスもあり、同時に私的な存在でもある人間の領域といえるのが<家族>。公的でも私的でもある<家族>はまさしく<純粋疎外>としての人間の共同体です。吉本理論では公的にも私的にもなる<純粋疎外>の領域としての家族を、<大衆の原像>と定義しています。シェアハウス的なものに新しい家族像を見出そうとしたり、家族の形態が大きく変わりつつある現在、社会のメインの問題となる可能性があるものでしょう。

 ・以上は公的な領域での問題ですが、個人の領域でも認識上見分け(区別)がつかなくなることを要因とした問題?があります。それは認識上の病気とアートの問題の2つ。たとえば、ある個人の感動にともなった表現が他者に受け入れられて他者の感動を呼び起こしたとすれば、それはアートです。それは認識上の要因としては<純粋疎外>の問題であり、同時にアートのベースにある問題そのものだといえます。感動から精神疾患まで、認識の構造は同じだということを吉本さんはクリアにしました。(自己と共同の幻想の区別が曖昧な状態が「アフリカ的段階」です)

 このように、あらゆる場面で<ゼロ>として設定できる<純粋疎外>という概念装置は、すべてがスタートするところとして、吉本理論の全体の統一性や各論の整合性を保障する圧倒的な発見だといえるものです。

 

 マルクスでも生産と消費は相互に転換するものとして、経済の<純粋疎外>を前提にしていたと考えることができ、吉本さんが社会について考えた最後のテキスト『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では、このマルクスの生産=消費論を取り上げています。
 そこでは従来の倫理や思想の無効が宣言され、それがフラット化した社会の、不安のラジカルな原因であることが示されています。
 フラット化した社会で生きていく私たちには切実な問題ですが、吉本理論にはそれをクリアしていく思索のヒントが散りばめられています。

 それらを手がかりに、これからの倫理や思想は私たちが創っていくもの。
 あらゆる<ゼロ>に私たちを代入すること。
 本書は、そのためのマニフェストであり、吉本理論のガイドを目指したものです。

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

ギブミー、ポチッ!

よかったら押してください!

無料ブログはココログ

PV

  • android

いろいろ

  • いろいろ