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2012年9月26日 (水)

<純粋疎外>という<自他不可分>の状態

 お風呂に入って、お湯の温度が38℃だとすれば、そのお湯はヌルイと感じるでしょう。もしそれが42℃だとすればアツイと感じる人が多いと思います。

 アツイとか、ヌルイとか....これらは価値判断です。
 人間の価値観からモノゴトを判断した価値判断です。

 それでは体温と同じ36℃のお湯ではどうでしょうか?
 価値判断としては38℃より低い36℃ならばもっとヌルく感じるはずです。
 ところが、実際にはこの36℃のお湯の中では何も感じません。水圧による圧迫感や水の動きによる感触はあっても温度の感覚としては何も感じていません。正確には、感じることができないのです。ナゼなら、自分と同じ温度なので、感覚は感じることができないワケです。価値判断ができない状態です。
 つまり温度を感じる温感としては、<自分の身体>と<外部のお湯>とが同じ温度なので見分けがつかないのです。主体である自分と感覚の対象である自分以外のものとの区別をつけることができないワケで、温感としては<自他不可分>の状態あるいは価値判断不能の状態でもあるわけです。

 この<自他不可分>の状態は、特に珍しい現象でもなく日頃から私たちのさまざまな感覚と認識のなかで起っていると考えられます。たとえば、寝ぼけていたり何かに気をとられていて、今目に見えているものが何だかわからないということがあります。視覚的には見えているのに意味がわからない。つまり視覚情報としてはキャッチできているけど、その意味がわからないということです。
 そして意味がわからないためにその価値もまったくわかりません。前述のお湯の例でいえば、お湯という対象がわからないためにアツイ・ヌルイという価値判断もないということと同じになります。

 以上のように自分と対象の見分けのつかない<自他不可分>の状態があり、そのために価値判断もできない<判断不能>の状態があることがわかります。逆に価値判断ができない状態は対象の見分けがつかない状態だともいえるワケです。

 このような、対象を捉えているが価値判断できない状態、あるいは自分と対象との区別がつかない状態というのは珍しいことではなく日頃からある状態です。

 

 この状態を吉本理論では<純粋疎外>といいます。 
 それが視覚においてのことであれば<純粋視覚>、聴覚の場合ならば<純粋聴覚>、感情ならば<純粋感情>となります。

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