純粋疎外/ボクが読んだ<吉本隆明>

2012年10月26日 (金)

旅や引越しでもリセットできる!

TPO=場所的限定という原点

 ある精神分析医の本に、引越しをしただけで統合失調症が治ってしまった例が書かれてました。
 もちろん精神疾患が治った理由は不明だとされてます。しかし、そこにはハッキリと“引っ越したら治った”と書いてあります…。

 吉本隆明さんの読者ならば、すぐにわかる可能性があるのがココ。
 “引っ越したら治った”という事実について。

 認識の基本となるのは、まず、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原点。
 この“ダレ?ドコ?”がモノゴトを認識していく<概念>や<規範>を形成する起点になる…ので、観念、意識の基礎にある<概念>や<規範>を変成したり変容したりできれば、すべての認識は自由自在に変化させることができるワケです。そのために宗教などが命がけの修業をしてでも獲得しようとする能力やスキルが、コレになります。それは“ダレ?ドコ?”まで遡行することと、そこで<概念>や<規範>をコントロールすること。
 それは自分がいま、どこに、どのようにいるか?ということがすべての認識の前提にありスタートになっているからですね。


 乳胎児では観念と運動が未分化。つまり思考と行動が未分化。
 そのために<感じたこと>はそのまま<行動したこと>になってしまう。
 そして“そこに居る”ことそのものが<行動した(する)こと>の原点(起点)になっている。

 そのために、そこまで遡って認識を組み直すと、すべての認識を作り変えることができる…。
 これが“引っ越した=場所を変えた”だけで精神疾患が治ってしまった根本的な要因です。

 問題は、引っ越して場所を変えただけのことが、どうやって“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という原了解のレベルの認識まで遡行できるのか?ということ…。

 ここに吉本理論でもっとも重要な哲学的な発見があります。
 それはインド哲学の<ゼロの発見>にも相当するともいえるもの。すべての認識の原点になるもの…。
 ゼロの発見で数学は飛躍的に発展しましたが、<観念の弁証法>と自称される吉本理論は、その根本に観念の起点を定義づけることができているワケです。

 吉本隆明さんは、認識論において<ゼロ>を発見してしまっているといえるでしょう。本人は別の表現をしていて、<純粋疎外>と定義しています。この<純粋疎外>が数学における<ゼロの発見>にも相当するもの。
 吉本理論の全工程にわたって貫徹されている概念装置が、この<純粋疎外>で、これはまさしく<ゼロの発見>における<ゼロ>だといえるものです。


 ポイントは“引っ越して場所を変えた”だけのことが、認識の基礎を形成する“ワタシはダレ?・ココはドコ?”ということと、どうやって同致されるのだろう? どうやって変換可能なもの、転換可能な状態になるのか?ということですね。
 これは対象を感受する感覚が、TPOによっては対象と自分の峻別がつかない状態になることを論証できればいいワケです。
 つまり、人間は条件さえ整えば<自他不可分>の状態になる、ということを示すことができればいいはずです。


 旅に出てリフレッシュするのは、誰でもやってること。
 リフレッシュとは、認識を新たにすること。
 ふつうはリフレシュしても、そのあとで、もとの日常的な認識(終わりなき日常)に戻るだけですが、ちょっとしたことで、それをズラしたり、もとの日常とは別の認識を維持することができます。

 場所を変えただけでも、“ワタシはダレ?・ココはドコ?”という認識の原点=原了解のレベルへ遡行できれば認識をリフレッシュ、変成、変容することが可能です。そうすれば、すべて(の認識)は変えられる…。
 それが引っ越しただけで精神疾患を治してしまった人の例…。

 場所=TPOを変え、原了解レベルの認識をリセットしたりコントロールするということは、<世界視線>の見え方をコントロールすること…。

 それは誰もが意識しないで日常から行なっている自己治療であるかもしれません。
 この自己のリセットを意識的に行うことで、自分の強度を増すことができます。
 これはTPOをコントロールすることで…シンプルに最強の自己を生成する方法でしょう。

2012年10月 9日 (火)

赤ちゃんはまるごと<純粋疎外>!?

 赤ちゃん(≒胎児)には<自分>と<自分以外>のものとの区別がありません。自分がすべてです。自分が<世界>で、自分のまわりの<環境>で起ることは、自分に起ったことなのです。特に胎児ではそうです。

 お母さんの胎内にいる赤ちゃんにとっては、お母さんに起ったことは自分に起ったことになります。お母さんがストレスを受ければ、それは直接に赤ちゃんに影響します。
 胎児は母体から栄養をもらっていますから、お母さんの栄養不足は、そのまま胎児の栄養不足になります。お母さんが精神的なストレスを受けても、そのストレスはそのまま胎児に伝わります。

 やがて胎児は<自分>と<自分以外>のものの区別ができるようになります。つまり<環境>そのものである<母体>と自分自身を区別するようになるわけです。
 陣痛は、胎児が<自分>と<母体>を区別するようになった最初の、そして最大の証拠です。それまで母親の脳のアドレナリンに左右されていた胎児が、今度は自らアドレナリンを分泌し、<母体>との分離を求めはじめるのが陣痛なのです。

 陣痛から出産にいたるストレスはお母さんにとって大きな負担ですが、赤ちゃんにとっては生命をかけた<自立>のはじまりです。出産の時に胎児が浴びるアドレナリンの量は大人であれば致死量に相当するといわれています。文字どおり出産は赤ちゃんが生命をかけた自立であり、母体との別れです。

 出産によって物理的に母体と分かれた赤ちゃんは、今度は一生をかけて観念的に別れていきます。お母さんや親から分かれ(別れ)ていく、<人生>という長い物語のはじまりですね。

 出産後およそ1年間は、赤ちゃんはお母さんがいなければ生きていけません。
 赤ちゃんは<純粋疎外>と母子一体感に育まれながら、少しづつ別離の準備に入っていきます。

2012年9月28日 (金)

すべてのはじまりは<純粋疎外>

 <純粋疎外>という、<自分>と<自分以外>のものの見分けがつかない状態は、あらゆる場面でいつも起っています。<自他不可分>はいつでもどこでも起こっている現象です。この判断不能の状態は次のステップへの準備でもあると考えられます。

 そして、すべてがはじまるところが<純粋疎外>です。

 

 <純粋疎外>の始まりは母親の胎内です。

 人間が胎児として母体内にいるときには、<自分>と<母親>の区別がついていません。胎内で母子は一体であり、母子不可分の状態にあります。胎児からみれば<自他不可分>な状態です。羊水に浮かんでいる胎児の姿は、36℃のぬるま湯につかっている人と同じようなものでしょう。実際にこの状態を再現するようなフロートカプセル(アイソレーション・タンク)があり、リラクゼーションに役に立っているようです。人間の原点である母子不可分の状態、<自他不可分>な状態にまで戻って、安心していられた状態を想い起こし、一時ですが根本的な安寧を得て心身ともに心底から休むことができると思われます。ラジカルにリセットできるワケです。

 <自他不可分>の状態である<純粋疎外>では、時間や空間も区分けされていません。自己と他者だけではなく、過去も未来も区別できない状態なのです。そのために<純粋疎外>の状態では<いま/ここ>の認識を未来のように感じたり、あるいは過去のように感じたりします。デジャブとか予言、予知のような感覚の根拠がここにあります。

2012年9月26日 (水)

<純粋疎外>という<自他不可分>の状態

 お風呂に入って、お湯の温度が38℃だとすれば、そのお湯はヌルイと感じるでしょう。もしそれが42℃だとすればアツイと感じる人が多いと思います。

 アツイとか、ヌルイとか....これらは価値判断です。
 人間の価値観からモノゴトを判断した価値判断です。

 それでは体温と同じ36℃のお湯ではどうでしょうか?
 価値判断としては38℃より低い36℃ならばもっとヌルく感じるはずです。
 ところが、実際にはこの36℃のお湯の中では何も感じません。水圧による圧迫感や水の動きによる感触はあっても温度の感覚としては何も感じていません。正確には、感じることができないのです。ナゼなら、自分と同じ温度なので、感覚は感じることができないワケです。価値判断ができない状態です。
 つまり温度を感じる温感としては、<自分の身体>と<外部のお湯>とが同じ温度なので見分けがつかないのです。主体である自分と感覚の対象である自分以外のものとの区別をつけることができないワケで、温感としては<自他不可分>の状態あるいは価値判断不能の状態でもあるわけです。

 この<自他不可分>の状態は、特に珍しい現象でもなく日頃から私たちのさまざまな感覚と認識のなかで起っていると考えられます。たとえば、寝ぼけていたり何かに気をとられていて、今目に見えているものが何だかわからないということがあります。視覚的には見えているのに意味がわからない。つまり視覚情報としてはキャッチできているけど、その意味がわからないということです。
 そして意味がわからないためにその価値もまったくわかりません。前述のお湯の例でいえば、お湯という対象がわからないためにアツイ・ヌルイという価値判断もないということと同じになります。

 以上のように自分と対象の見分けのつかない<自他不可分>の状態があり、そのために価値判断もできない<判断不能>の状態があることがわかります。逆に価値判断ができない状態は対象の見分けがつかない状態だともいえるワケです。

 このような、対象を捉えているが価値判断できない状態、あるいは自分と対象との区別がつかない状態というのは珍しいことではなく日頃からある状態です。

 

 この状態を吉本理論では<純粋疎外>といいます。 
 それが視覚においてのことであれば<純粋視覚>、聴覚の場合ならば<純粋聴覚>、感情ならば<純粋感情>となります。

2012年9月21日 (金)

<純粋疎外>は<ゼロ>の発見!

 インド哲学ゼロを発見したことによって数学も論理学も飛躍的に発展しました。
 仏教や、空海のような認識論までひろげれば、それはさらに現代の理論物理学まで含むあらゆる分野に歴史的な衝撃と進歩をもたらしたといえるでしょう。

 人類がいちばん古くから考えてきた心=魂への孝察においてはどうか?
 確かに精神分析は無意識を発見しましたが、その後もこのブラックボックスに依拠するというスタンスに変化が無く、ラカンのように<現実界>という概念を設定しブラックボックスを明確に対象化したところで、それがブラックボックスであることにかわりはありません。

 生命の自己生成から社会への孝察にまで広く援用できると期待されたオートポイエーシスのシステム論においても、それは同じです。

 オートポイエーシスのシステム論には<外部>が定義できないという限界があります。
 そしてこのことによってシステム論の最大の特徴でありメリットとされた<境界>の自己生成という発想にも大きな疑念をはさまざるをえないと考えられます。
 なぜなら、<外部>の定義がアヤフヤなのに<外部>と<内部>の区切りである<境界>が定義できるワケがないからです。
 ただし<外部>や<境界>を明確に定義できないという弱点こそ、逆に論理的な根拠として利用できる可能性があります。
 そのヒントが<ゼロの発見>です。

 無いというコトを<ゼロ>と定義して明確に概念化したインド哲学のように、明確に定義できないことは{<定義できない>と明確に定義すればいいワケです。

 

 吉本隆明氏の心的現象論は、受胎(あるいは受精)の瞬間からはじまる心的な世界に、<ゼロ>の概念を導入することで理論的な展開を可能にしたもの。心的世界での<ゼロの発見>によって、心理学から哲学だけではなく、さまざまな認識論までもつらぬく心の現象学を打ち立てることができたわけです。 

 それが<純粋疎外>と呼ばれるもの。
 これが<ゼロの発見>です。

2012年9月 3日 (月)

<純粋疎外>という、コード・ゼロ

 吉本さんの理論では<純粋疎外>という概念を基本的な前提としてさまざまな言説が展開されていきます。戦後最大の思想家と呼ばれたり、資本主義最後の思想家といわれたMフーコーが吉本隆明を絶賛した理由も、そのような可能性を吉本さんに見出したいといったところにあるのかもしれません。

<純粋疎外>とは、たとえば…

 ・社会的な大きなワクでいうと、現代では<生産者>と<消費者>の見分けがつかなくなってきています。アメリカからはじまった消費者の絶対的な保護は日本でも実効されつつあります。これは先進国であることのバロメーターでもあり、構造改革がなされる以前の日本は生産者を中心とした社会でした。しかしPL法に代表されるように消費者保護が全面的に打ち出され、現在では生産者と消費者の区分けをせず見分けもつかなくなってきています。消費者と生産者はともに<自他不可分>の状態で、価値判断もできなくなっています。特定の価値観による主張や政党が支持されなくなってきているのもその現われでしょう。グローバルにはTPPをはじめ大きな問題が生じています。

 ・経済(学)的には<商品>と<貨幣>の見分けがつかなくなってきています。お金を出して株式を買うのは、お金(貨幣)という有価証券で株式という商品(有価証券)を買っているわけで、お金でお金を買っているわけです。違いといえば貨幣は国家が発行し、株式は会社が発行しているという点。この違いは法的なものでしかなく実体的には同じです。どのような点で同じかというと<実体が無い>という点で同じなわけです。「本物の日銀券は偽物だった」という浅田彰さんの言葉はこういうことを象徴しているといえるでしょう。

 ・吉本理論では社会の基本的な拠り所を<大衆>としていますが、この<大衆>という概念も<純粋疎外>概念としてのもので、<大衆の原像>と定義され呼ばれています。
 <純粋疎外>としての<大衆>とは、公的と私的の区別がつかない状態の大衆だと想定できます。公的なニュアンスもあり、同時に私的な存在でもある人間の領域といえるのが<家族>。公的でも私的でもある<家族>はまさしく<純粋疎外>としての人間の共同体です。吉本理論では公的にも私的にもなる<純粋疎外>の領域としての家族を、<大衆の原像>と定義しています。シェアハウス的なものに新しい家族像を見出そうとしたり、家族の形態が大きく変わりつつある現在、社会のメインの問題となる可能性があるものでしょう。

 ・以上は公的な領域での問題ですが、個人の領域でも認識上見分け(区別)がつかなくなることを要因とした問題?があります。それは認識上の病気とアートの問題の2つ。たとえば、ある個人の感動にともなった表現が他者に受け入れられて他者の感動を呼び起こしたとすれば、それはアートです。それは認識上の要因としては<純粋疎外>の問題であり、同時にアートのベースにある問題そのものだといえます。感動から精神疾患まで、認識の構造は同じだということを吉本さんはクリアにしました。(自己と共同の幻想の区別が曖昧な状態が「アフリカ的段階」です)

 このように、あらゆる場面で<ゼロ>として設定できる<純粋疎外>という概念装置は、すべてがスタートするところとして、吉本理論の全体の統一性や各論の整合性を保障する圧倒的な発見だといえるものです。

 

 マルクスでも生産と消費は相互に転換するものとして、経済の<純粋疎外>を前提にしていたと考えることができ、吉本さんが社会について考えた最後のテキスト『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では、このマルクスの生産=消費論を取り上げています。
 そこでは従来の倫理や思想の無効が宣言され、それがフラット化した社会の、不安のラジカルな原因であることが示されています。
 フラット化した社会で生きていく私たちには切実な問題ですが、吉本理論にはそれをクリアしていく思索のヒントが散りばめられています。

 それらを手がかりに、これからの倫理や思想は私たちが創っていくもの。
 あらゆる<ゼロ>に私たちを代入すること。
 本書は、そのためのマニフェストであり、吉本理論のガイドを目指したものです。

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