Prolog/ボクが読んだ<吉本隆明>

2016年2月18日 (木)

最強の思想家の、難解な本…

 最大最強で有名なのが思想家の吉本隆明さん。著書も難読、難解本として有名だ。
 でも、読んでみて、こんなに「うんうん」「なるほっ」と納得と感動のシャワーを浴びれるような本は、他にはなかった。

 最高学府をトップクラスの成績で卒業した教授が何名もゴロゴロしてる大学では、「資本論」の講義の前に論理学を勉強させられた。考えることの達人は、考える“方法”そのものが“考え”を左右することを知っているからだ。アタマがイイってことは、スゴイことなんだなっ、と思った。別のいい方をすれば、方法がちゃんとしていれば誰でも正しい考え方ができる、ということでもある。本物のスキルとは、きっと、こういうもののことをいうのだ。誰のポテンシャルでも引き出してくれる、そういうスキルやそういう方法だ。

 そこで読んだヘーゲルの論理学は、縦・横・高さの3次元への認識からスタートする思考法で、科学的な思考の原則となるもの。3次元を考え、そこに量や質を見出し、さらに高次元へ思考をめぐらせ、考える対象そのものへ働きかけていく…この考え方、考える方法そのものが論理だ。そして考え方が進むにしたがって、考える方法も緻密になっていく…。だんだん進歩していく考え方そのものが、順を追って微細になりつつ、同時にいつも全体を見失わないように自己コントロール(自己言及)されている…この考える方(主体)と、考えられる方(客体)の関係そのものが対話=弁証法として把握される。ギリシャ哲学の代表ソクラテス以来の、考えることそのものの哲学が論理学であり弁証法なのだ。この思索のノウハウ、考え方そのものが吉本さんの本にはあふれていた。もちろんそれは資本論を読んだ印象にもとても似ているところがたくさんあった。

 弁証法で、特にイケていたのは<疎外>という概念。疎外とは表現のことで、疎外されている…とは表現されていると考えてしまってもOKだ。例えば…ソレはその周囲とは異なっているからこそソコに現れている…ということだからだ。周囲とまったく同じだったら表現されていることにはならない。周囲とは異なること、周囲との異和そのものが疎外だ。それは同時に表現(外化)されていることでもある…。この<ソレ>と<ソコ>と<周囲>の関係。それが疎外論であり、吉本さんが探究していることそのものだったのだ。

 難しいことを書いてしまったけど、現実に吉本さんの本を読んでいて難しいことはなかった。たぶん、解らないと読むのを止めて、また読みたくなるまで放っておいたからだろう。クリアできるまでゲームを途中でセーブしておくのと同じだ。日本でいちばん難解な本といわれていた『心的現象論序説』を読んでいたが、あせることはなかった。いつでもセーブ、時にはリセットして、読みたいところから読んでいた。とうとうどこが難解なのかはわからないまま読了した。でも、考えてみると何年かかったのかわからないくらいで、アルバイト生活をしていた学生以来20年近くがたっていた。本当に読了した時には20年くらいたっていたのだ。気楽にセーブしたりリセットをしていただけではなく、吉本さんの本の中の用語も自分にとっては理解しやすかったのがよかった。位相幾何学や物理化学的なスタンスはわかりやすくてブレがない。メビウスの環のような発想は、ソクラテスの弁証法とともにキチンとした理解へ導いてくれた。ヘーゲルの弁証法のようなアプローチは資本論やマルクスと同じようで大学の講義と似てもいた。ボクとしては「難解な本」は難解ではなかった…。これは自慢ではなく、先入観なしでマイペースで読めば、必ずクリアできる…という事実にすぎないのだろうと思う。誰にとってもそうであるハズだ。一箇所だけ、2、3行にまたがるテキストで意味がわからないところがあったけど、今はそれがどこだったかさえわからなくなっている。(いまだにわからない文章がジャック・アタリの本には一箇所ありますがw)

 ボクは、そうやって<吉本隆明>を読んだ。
 この本は、未帰還者である吉本隆明さんの、そのポテンシャルをみんなのものにするために企画されたものだ。
 上手に伝わらなければ、その責任はボクにある。だとしても、解決のために、ネットのどこかでそういう応答をするのも楽しいだろうとも思っている。

2012年9月19日 (水)

<吉本隆明>を新しく読む!

●共同幻想とは人間関係のこと…

 吉本さんのタームで有名なのが“共同幻想”。まったく吉本さんとは関係のない文脈で使われてることも多く、たしかに、どこでも誰にでも使いやすい言葉だ。旧来の読者にとっては“国家とは共同幻想である!”の一言で絶対的な存在に見える国家を相対化してしまった革命的キーワード。ニーチェの“神は死んだ!”くらいの衝撃があったんだと思う。

 ただし、“共同幻想”が正確に理解されているかどうかはナゾ。国家は幻想である面があるが、『共同幻想論』ではそういう説明をしているのではないからだ。幻想を見てしまう理由と、それを使ってヤマトの国や、村々の共同体ができていく過程を解説していて、近現代の国家を直接に説明しているパートはひとつもない。近現代国家の機能分析ならばレーニンの『国家と革命』や、グローバルレベルではネグリハート『帝国』が詳細な分析がされいて、吉本さんも『国家と革命』を評価している…。

 『共同幻想論』で解説されているのは山村の小さな社会や共同体、古代日本の国家の生成過程だ。『遠野物語』に代表される伝承や巫女やシャーマンに象徴されるエピソードなど民俗学、文化人類学的なアプローチが大部分。簡単にいえば、そこでの“人間関係”が分析されている、といってもいいだろう。社会や国家は膨大な人間関係の総関数なのだから当然だ。経済の市場が膨大な相対取引の総関数であるように、吉本さんは個人と最小共同体である家族との関係を起点に、国家というものが見えてくるレベルまで論理を展開させている。この一貫性と強度は驚異的。そしてこれが吉本さんとその思想の魅力だろう。この思索する力は、不可能なものがないんじゃないか?と思わせるくらいスゴイのだ。そして実際、吉本さんの思索はその後もずっと続いて、コムデギャルソンから宇多田ヒカルまで、その方面のプロより深く鋭いクリティークが繰り返されていく。超高度資本主義の現代社会を読み切った『ハイ・イメージ論』まで、それは続いている。

●Mフーコーが『言葉と物』の失敗をコクった…

 共同幻想論をメインとした吉本さんの思想や理論のガイドは少なくはなく、また、どうにかハイ・イメージ論までサンプリングしてる批評もある。しかし、そのスタンスは旧来の読解のもので、ポストモダンを経過した見解はなく、たとえば共同幻想論は国家論…という一面で見ているケースがメジャーなようだ。難解で有名な『心的現象論序説』などは言及も少なく、『アフリカ的段階』のように奇書と呼ばれるものもある。逆にいえば、それほど強烈なオリジナリティと、フランスの現代思想の当事者たちが絶賛するような内容が吉本さんの著作にはあふれているのだ。資本主義最後の思想家ともいわれるMフーコーは自らの大著『言葉と物』の失敗を吉本さんとの対談でコクっているほど、吉本さんは信頼されているともいえる。

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』のようにまずひきこもりを全面肯定してくれた思想は他にはない。もともとひきこもりな吉本さんだからこそ主張できた深さと優しさがある。他人にどう見られるかとか内容よりプレゼンの上手さ…みたいなものは吉本さんには一切通用しないのだ。『よせやぃ。』『超恋愛論』も理論を述べている著書より鋭い指摘も目立ち、答えはこれからみんなで出していかなければならないような提起がスルドイ。『初期ノート』は自身をグランドリセットとした吉本さんが再起動していくリアルな姿だ。レーニン『哲学ノート』みたいな縦横無尽の思索が、みずみずしい。同じ年の頃にこれだけ思索できたか?という大きな刺激にもなりそうだ。

 『ハイ・イメージ論』は『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』の現代版。幻想というイメージの問題と、言語という概念などの問題を、視覚像も含む世界視線の問題として統合しようとしたもの。その心理作用は『心的現象論序説』から『心的現象論本論』へ拡張され、『ハイ・イメージ論』との相互補完的な文献として展開されている。心的現象論は未完だとされているが、ハイ・イメージ論のエンデイングと考え合わせると、ワザと未完で終わらせたのでは…と思えるところがある。ハイ・イメージ論は超高度資本主義下でマテリアルとテクノロジー以外は無効であることを宣言して終わっている。つまり超高度資本主義社会での思想や倫理はこれからみんなが考えることだ…と示唆されているワケだ。
 マルクスやフロイトや、遠野物語や日本書紀まで、さまざまなエグザンプルを参照しながら、吉本さんの思索は展開されてきた。上等な素材が神業のような手さばきで、時に予想もしなかったような新しい意味や価値となり、重要な意義を発していく。そうやって共同幻想論や心的現象論は書かれたのだし、また多くの対談がなされてきた…。読者にとってはどうだろう。

●国家も自分も<ゼロ>、あるのはゼロの可能性だ…

 新しく最大の思想家の最強の思索をフォローして、自分たちのスキルにするには、新しい読み方が必要だろう。ここではリア充な吉本ガイドを目指したいのだ。
 結論をいうと、吉本理論のベースにある概念を新しく考えなおして、自分たちに役立てようというのが本書だ。
 吉本さんが思索し、提出した概念装置を別の言葉に置き換えて考えてみる…そうやって<純粋疎外><遠隔対称性><中性の感情>といったものを、もっと使いやすくする…。新しい読解には新しい可能性があるハズだ。
 吉本さんが自らは知らずに構築していた理論の最重要概念に見出せるのが<ゼロの発見>ともいえるもの。
 この<ゼロ>を顕在化させて、自分たちの思索のスキルにしようというのが本書の企画だ。

 エグザンプルなどは文学的な意味や古いイメージもあるので、現代風に言い換えてもみる。
 この新しいタームへの変換では、同時に、だからこそ可能になった吉本さんの<ゼロの発見>を強調しておきたい。このことによって吉本理論をベースとするものはもっと汎用性が高くなるからだ。

 幻想性は<ゼロ>によって支えられているけど、そこには同時に、<ゼロ>には何でも代入できる…という可能性がある。ボクたちには、自らを<ゼロ>に代入して、なりたい何かになれる…という可能性があるのだ。吉本さんの魅力は、そのことをなんとなく示すかのように楽天的だったことかもしれない。すべての思想は無効になったと宣言しながら、ペシミスティックではないからだ。

 5年も同じことをやったら、その方面のプロになれる…吉本さんはどこかでそんなことを書いていた。もっとやったら開拓者になれる…ともいってくれていた気がする。国家も自分も<ゼロ>であることを示してくれた吉本さんは、そこへ自分を代入できることも教えてくれている。本書は<吉本隆明>を新しく読むとともに、読んでからのボクの見解をいくつも載せている。吉本理論に影響されたものの見方や、そのポテンシャルをプレゼンしているワケだ。むしろその方が多いかもしれない。吉本さんを新しく読むということそのものが、吉本さんに影響されて生まれたスタンスでもあるからだ。

 最強のスキルを自分のものにするためにも、コードゼロへ<自分>を代入してみよう。
 そのためのアドバイスをするのが、この本の目的だし、ボクの目的だ。

2012年9月 6日 (木)

最大の思想家が思索した、何にでもなるコード<ゼロ>の発見!

     色彩は自然を模倣するが、
     配色は論理を模倣する…。


 最大の思想家といわれる吉本隆明さん。
 未帰還者の彼は、現世に膨大なテキストを置いていってくれた。はじめの2行は“東京国際コレクション”で見たコムデギャルソンをサンプルにしたファッションについてのテキスト(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「ファッション論」)からのもの。ファッションについて分析した明快な定義の一言。吉本さんの後輩でもある東工大のある学者は、今の小学生たちが大きくなった頃には吉本さんの多くのテキストが研究され、新発見があるだろうといっている。資本主義の最後の思想家といわれるMフーコーは、吉本さんのテキストが海外で出版されることを希望した。もちろん今すぐに吉本さんのテキストを読み、そのポテンシャルを知りたい人も多いはずで、何よりも近い将来の見通しさえハッキリしない現状では、なおさらそうだろう。専門家さえいまだにバブル経済の理由もその崩壊もちゃんと説明できなかったりする。しかし吉本さんの論考を手がかりにするとバブル経済でさえ明快に解ってしまうのだ。吉本さんはバブル当時にすでにその全体像に対する指摘をしていた。そこにはいまのグローバルレベルの民主化やデフレまで予測されている。

 

 『ハイ・イメージ論』の論考は鋭いクリティカルな内容で、サブカルから経済まで“現在”にフォーカスしている。現在を解明するために吉本さん自身が目指したオリジナルでクリティカルな思想だ。それはかつて絶大な影響をもった『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』の現代版であり、“現在”に対して明快な解を示すことができている。アバウトにいうと、人間と共同体の関係を解いた共同幻想と、言葉とその価値を解いた言語論を、イメージを中心に統合し直したのがハイ・イメージ論なのだ。

 そして、ハイ・イメージ論は現代社会で通用する思想がない…という解を示して終わっている。
 だけども、吉本さんの思想は暗くない。絶望を捨てるとかいうクールを装ったポーズではないし、その自然体のジャッジは、どこか悟りのようで、しかも宗教的なニュアンスでもなく、日常をふつうに生きていく静かな“力”のようなものがあふれている。詩人の繊細さをもった革命家というか…革命家の魂をちょっと秘めた横丁のオヤジさんみたいな…感じかもしれない。元気なひきこもり、シャイな人間オタクみたいな、そんなイメージもする思想家?が吉本隆明さんなのだ。

 

 2012年3月16日未帰還者となった吉本隆明さんは、戦後最大の思想家。ノンジャンルで展開される頭脳はクールで、丸山真男論をキッカケにCIAにリストアップされたといわれるほど。社会についての発言はいつも刺激的。誰もが気がつかない視点をもつダークホース的な存在だけど、ホントはダースベイダーのような“最期に優しさ”のようなものを漂わせてくれそうなのがリアルな吉本さん、らしい。もちろん、“マクドナルドな作品”といわれた小説で世界で人気を得た作家よしもとばななさんのお父さんだ。

 当時?も今も、吉本さんの人気が絶大なのは団塊世代や全共闘世代という人たち。学生運動がさかんだった頃、“国家は幻想である”ことを示した『共同幻想論』の本とともに吉本さんは大スターだった。この世代の人たちが書いた吉本さんのガイド本や関連書籍があり、読まれている。ただ当時共同幻想論が人気だったように、それらの本の内容も共同幻想や当時の思想や哲学のワクにとらわれているものが多く、逆に“最も難解な書”といわれる心的現象論などが取り上げられる機会は少ないようだ。

 新しい世代?では糸井重里さんの“吉本隆明リナックス化計画”や渋谷陽一さんの「SIGHT」での吉本さんの連載などがあり、読者は少なくないようで、若い女性のファンも増えている。吉本さんの講演がDVD化されたり、身近な内容の斬新な書籍となって読まれている。iPodで吉本さんのワンフレーズを聴いている人もいるようだ。

 もっとも新しいのは東浩紀さんの「思想地図」などと周辺の読者かもしれない。吉本隆明さんは小林秀雄とともにたった2名だけその想像力を「思想地図」からリスペクトされる思想家なのだ。ただし、新人類以降の世代からは吉本理論の紹介本やガイドは出ていない。たぶん、これから吉本さんを読んでいこうというのが最大公約数なのかもしれない。

 

 95年のWindows95や96年のインターネットの本格的な商業化スタートでコンピュータとネットは日常化し一般化した。文系理系問わずプログラマは普通の職業になり、PCやIT関連は社会や産業の重要なベースになった。テクノロジーとマテリアルが社会の進歩のキーだ。世界に植民地とか低開発国がたくさんあった頃は、“解放”のためのイデオロギーや“進歩”のための物語りが必要だった。現在はどこかに占領されてる場所は少ないし、開発途上国には先進国からIT技術が入り、ジャングルでもWIMAXがOKだったり、ケータイは多くのところで使えるようになってきた。テクノロジーとマテリアルのおかげだ。そのなかで思想や哲学だけがおくれているのかもしれない。たとえば思想や哲学、精神分析まで、システム論などが取り入れられてきたが、その成果がなかなか確認できなかったりする。

 消費がGDPの半分以上を占める日本やアメリカなどの先進国ではモノがあふれ、景気がよくなくても、どこでも商品はたくさん並んでいる。恒常化したデフレ状態だ。これまでの人類の歴史のすべてが、無いものを作り、必要な物を生みだし、欠乏を補うものだったけど、現在は逆。モノがあふれ、いろいろなチャンスが誰に対してもあり、すべてが“過剰”だということができる状況になってきている。現在のキーワードは<過剰>なのだ。

 吉本さんの『ハイ・イメージ論』では、その<過剰>な世界をターゲットにして分析している。現在の“共同幻想論”であるハイ・イメージ論では、欠如を埋めようとした時代の倫理が、今はもう通用しなくなったことを結論にしている。フラット化した社会では今までの思想や倫理は無効になってしまったのだ。

 しかし、そのフラット化した、すべてはゼロであるような状況でこそ、力を発揮する思想はある。
 疎外概念から思索して、国家がゼロであること、自分さえゼロであることを示した吉本理論は、同時に、その<ゼロ>には何でも代入できることを明らかにしているからだ。
 すべてがゼロであることを示した思想は、同時に誰もが何にでもなれることをも示してくれた、といえる。
 <ゼロ>には何でも代入できるからだ。

 そのコード・ゼロに接続する導きとしてこの本は企画された。
 読者はそれぞれに<自分>を代入してほしい。
 フラット化した社会だからこそ、これからをクリエイトするのは自分たちなのだから。

2012年8月30日 (木)

コード・ゼロに接続し、<キミ>を代入せよ!

 バブル崩壊以降いわれてきた“失われた10年”は、もう“20年”を過ぎてしまいました。

 平成不況以降のこの“失われた20年”は、最初から何もなかった世代にとっては失われたというよりも空白の…という感じで、その“空白の20年”も終わりそうになく、まだまだ続きそうです。社会のフラット化…というよりも、むしろ、ますます大きな空白に、虚ろな日常になっていくのかしれません。すくなくとも、いろいろなデータを見ても、明るい未来を想像させてくれるような、よさそうな数値や予測は見当たりません。就職はできないし、高齢化するし、年金はもらえないし、国際的にも日本はダウナーな感じ…。急成長しつつあるアジアなどの国々と比べて、成長可能な明日があるとは考え難いでしょう。

 個人向けの自己啓発や応援本は人気がありますが、それはスキルアップやメンタルにプラスではあっても、社会や経済には関係がないもの。政治や経済や社会問題は、巨視的なスタンス、マクロなアプローチがないと把握することも理解することもできません。

 中流が崩壊したといわれても、自分は中流!と思っている人間は90%もいます。この数値はバブル以前からあまり変化がないようで、“自分は中流!”という不思議な幻想が、いまの社会をかろうじて支えている可能性さえあります。ホントは大変なのに“大変じゃない!”と思い込むことはひとつの救いですが、解決ではありません。放っておくと、ますます大変な、どうしようもない事態になってしまう可能性は、個人でも社会でも同じです。しかし、どうしようもなく困難な問題があります。

 それは経済や社会の問題そのものではなく、“問題を認識する方法がない!”…という問題です。

       -       -       -

 日本が高度経済成長し超高度経済=消費経済になった時に、戦後最大の思想家・吉本隆明さんはコムデギャルソンを着てファッション誌に登場しました。理由は簡単で、昔はファッションが買えなかった人々も今は自由に着飾ることができる…ということを象徴するため。日本の経済的成功のおかげです。戦争と原爆でメチャクチャになった日本は不死鳥のように復活し、世界第2位の経済大国にまでなり、フツーの人々が高価なファッションを着ることができるようになった…。そのことを吉本さんは、自身でも喜びながら評価したのです。同時に著作『ハイ・イメージ論』ではコムデギャルソンの分析などデザインやイメージ、音楽・音声などへの鋭い論考を繰り広げました。“知”までが商品として流通する資本主義のあらゆるものをターゲットにし、縦横無尽の驚異的な思索を繰り広げました。坂本龍一さんとのコラボがあったり、ただの思想家ではないし、単なる最大の思想家でもない、最先端のクールな思考とヘヴィな解が示されました。

 最もヘヴィな解は『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最後の章「消費論」で示されました。吉本さんが有名になった最大のキッカケは「共同幻想論」ですが、これは、その共同幻想に関する最後の論考であり結論となったものです。
 共同幻想へのアプローチとしては最後の言葉かもしれない文章で『ハイ・イメージ論Ⅲ』は終わっています。そこではフラット化した社会での既存の思想や倫理の無効が宣言されています。


     (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」… P288から)
       わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
      すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
      過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
      ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。


 過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない…フラット化する社会で、既存の思想が無効なことが指摘されています。これだけだとペシミスティックですが、もっとも大事なヒントを示してくれています…ここから消費社会における内在的な不安はやってくる…ということです。

 フラットな社会で、みんなが持ってしまうなんとなく不安な感じ。その不安の根源的な理由を吉本さんは教えてくれました。
 現実に、企業の貯蓄・投資差額がプラス(貯蓄過剰)に転じた98年から自殺者は3万人を超えた(経済学者が「1998年問題」と呼ぶ問題)ままになっています。これは経済的な問題ですが、これらをクリアしていくためにも新しい認識や思想が必要になってきます。社会をちゃんと認識できる哲学や思想を構築すること…。吉本さんは、ちゃんと最後に大きなヒントをくれています。大きな物語などとっくになくなった現在ですが、大きな問題はあります。自分で考え、行動することで、現在をクリアしていく以外に方法はないのかもしれません。でも、吉本さんが示してきたさまざまな認識には、ディテールまでカバーできる繊細なセンスと思索のための強力なスキルがあります。

 <ゼロの発見>のようにラジカルで強力な吉本さんの理論を読んでいると、なんだか楽観的にもなれます。ひとりひとりが考え、自分の身の回りでクリアしていくこと…吉本さんは、そんなアドバイスをしてくれているような気がします。
 未帰還者になった吉本さんから、そんなコールが聞こえてきそうです。

 大衆はすでに、社会の決定権をもっている
 コード・ゼロに接続し、<キミ>を代入せよ!

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